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執筆者の写真brightwomanworld

通訳者+コミュニケーションストラテジスト その1 ~通訳者になろうと決意するまで~

更新日:2021年6月5日

最近、clubhouseで【通訳者のトーク 15分】というのを月水金でやっている。記録を見ると、昨日までで10回開催している。なぜこれを始めたのか、うーん、ただ単にブームに乗りたかったというのが最初かもしれないし、話上手になりたい、素敵な声になりたい、という思いもあったと思う。(ルームを練習台として使うイメージ。では、本番は何?と聞かれるとうーんと困るが。) お相手は大阪時代の通訳学校の仲間、10年来の友達まりりんと。お互いインハウスの仕事もあるので、1日の時間は15分にしようと決めた。お題は通訳にまつわることだけど、通訳者でなくても参加できるものにしたいと思っている。 タイトルを固定して設定、ルームの案内をきちんと書くようにすることで、また、会の終わりにいつ開催しているかをアナウンスすることで参加してくださる方が増え、そのお友達や飛び入りの方など参加者が少しずつ増えてきた。その中で2回連続でいただいたテーマが、「なぜ通訳者になったのか?」ということ。 せっかくなので、ゆっくり振り返ってみたい。なぜ私は通訳者になることを決意し、今後どうしていきたいか。 もともと外国語はずっと好きだった。人口2万人、マクドナルドやファミレスのない田舎(この記事のサブネイルをご参考のほど、実家の自室から撮った写真)で育ったので、外国人はおろか、実家の回りでは人や車すらほとんど見かけなかった。ただ、そんな田舎でも町内に兵庫教育大学という国立大学があり、外国からの留学生が来ていた。私が中学生の頃、月1回、国際交流会という留学生と交流できる会があり、仲の良い友達と参加したのが、初めての外国人(中学校のELTの先生以外)との交流だったと思う。日本語で話したり、習いたての英語を使ってみたり。いろんな人がいて刺激的だった。ある時、ふっとネパールからの留学生に「外国語を勉強するなら大阪外国語大学に行くといい。」と教えてもらった。 中学生の後半、学校の枠を越えた英語スピーチコンテストに参加。ELTの先生と日本人の英語の先生にレッスンをつけてもらっていると、日本人の先生から「えりさんは英語の発音は微妙やけど、いつもの明るさを発揮するといい。」と、コメントされたのを思い出した。けなされたのか、褒められたのか。笑 褒められたと思っておこう^^ 高校進学の際、英語が勉強できるところを希望。通えるところで英語科はなく、普通科英語コースに。入学後すぐの夏休みに、姉妹提携を結んでいるオーストラリアの高校に2週間行ける機会があると聞き応募。募集に対して応募者多数のため、面接を受けて合格した生徒がいけることに。面接の練習をしている時、「将来の夢は?」と聞かれて、「通訳者か外交官か、、、(他にも言ったような気がする)」と答えた。おそらく、その時が初めて真剣に通訳者という職業を考えた時だったと思う。 高校2年の夏~高校3年の夏、アメリカのワシントン州レイシーという街に交換留学生として滞在する。アジア人が多い地域で、その時にベトナム人と仲良くなり、ベトナムに興味を持つ。韓国系アメリカ人からは冷たく扱われ、逆に韓国にも興味を持つ。 アメリカから帰国後、進路はいろいろ迷ったと思うが、いろんな文化も知りたいし、外国語も勉強したいし、と大阪外大(前述、ネパール人推薦の大学)を受験。とりあえず、受かったものの、センター試験の数学の点数が悪すぎて、希望した語科に入れず😿(なぜか当時の大阪外大は外国語学部の下に国際文化学科と地域文化学科があり、国際文化学科希望者は専攻語科が試験の成績順に自動で振り分けられるということになっていた。私は国際文化学科の比較文化に行きたかったので、選べなかった。。。ちなみに第1希望はベトナム語、第2希望を朝鮮語。)ハンガリー語専攻となった。。。 副専攻語として朝鮮語(なぜ朝鮮語という表記なのかは、大学の政治と関係あるらしいのでここでは割愛。)を選ぶことができたので、そこで韓国語を習う。ベトナム語が諦められない私は、大学3年生になる時に、ベトナム語科の先生に直談判し、ベトナム語を専攻するために入学してきた1年生と一緒に週5コマ、フルフル勉強して、その翌年、半年間ベトナムへ語学留学。 ベトナムでは、語学学校に通いながら、ベトナム人が経営する日本料理店でバイト。店の雑用のために雇われたと言うより、在住日本人にそのお店のファンになってもらうべく、話し相手になってこいと。2004年当時、そこまで日本企業のベトナム進出が進んでいなかったとはいえ、いろんな企業の駐在員の方のお話が聞けた。 ある日、ベトナムに現地視察に来た株式会社SATO(現:サトーホールディングス)の社員の方と知り合う。当時の役職は忘れたが、本人いわく、上から6番目(その数年後、社長に就任)とのことだった。日本料理店ではローカルスタッフに対する愚痴を言う人が多い中、ネガティブなことを仰らず、きっといい会社なんだろうな、という印象を持つ。SATOは縁故採用を良しとしている文化があったため、「うちで働きたくなったら連絡ください。」と名刺をいただく。 その後、帰国して就職活動。自分は何ができるのか、何がしたいのか、決めきれず迷う。外国語は好きだけれど、言葉はツールでしかない。勉強した言語はハンガリー語、ベトナム語、韓国語と多岐にわたるものの、1番お金になりそうなのは英語。とはいえ、英語専攻でもないのでそんなにアピールもできず。今から思えば、自分のことも相手(希望する会社)のこともよく分かっていなかったと思う。受けた会社はことごとく書類審査で落ちた。 ベトナムに戻って働きたい、という強い気持ちを胸に、ダメもとでSATOにメールを送ると、ぜひ2次選考から参加してください、とのことだった。とんとんと最終面接に進んだものの、最終面接ではいつになく緊張してうまく受け答えできなかった。その後、一向に連絡が来ないのでだめだったか⤵と思っていると、意外にも内定が出た。 そして、翌年の4月からSATOの新入社員研修スタート。システム営業として、バーコードプリンタと消耗品を売るために1年程度みっちりと研修を受けたのだが、しばらくは箕面(大阪外大の所在地)の山から下りてきた猿の気分だった。同期の会話や社内での会話についていけない、と。ベトナムや韓国にばかり目がいっていたので、日本の芸能ニュースなんかが全く分からなかったのである。 外大を卒業してから3年間、日々の営業活動に汗を流していたと思う💦(英語他、習った外国語はほぼ忘れる。)知識も経験もちょっとずつついて、個別のお客様向けにカスタマイズ提案したシステムを販売したこともあった。時は2008年、リーマンショック勃発。担当していたユーザーが続々倒産。債権者説明会に参加したり、数日前まで普通に会話していたお客様先が倒産することも。(倒産情報を聞いて見に行ってみると、建屋が真っ暗だったり)もともと月々のノルマを達成することに喜びを見いだせていなかったし、倒産が相次いで、売り上げにならない作業ばかりしないといけないことも辛く、同じ辛さを感じるなら、自分の好きな場所でこの辛さを感じたいと。高校生の時に初めて意識した通訳者という職業を思い出す。言葉はツールでしかないけれど、大好きな言葉だけを使う職業に身を置きたい、そして、今から15年は何があっても通訳者という職業をやりつづける、と決意。15年という数字は、尊敬する先輩がSATO入社後15年だったから、というだけだったが、15年やれば自分が向いてるか向いてないか分かるだろうとの思いから。もう少しで、その決意から丸12年になる。 その1はこの辺で終了。その2は通訳学校入学~現在について、これまたざーと12年間を振り返ってみたいなと思う。


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